百景図の歩き方

武士たちの崇敬の地探訪コース(2時間)

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津和野百景図で最も多くの紙面を割いて紹介されている鷲原八幡宮および鷲原地区。鷲原口から城下町の外に出るが、
八幡宮は「武運の神」とされる。武家だけでなく、庶民も集う心の拠り所をめぐる2時間コース。

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道の駅津和野温泉なごみの里

このコースのスタートとゴール。
マイカーの方はこちらに車を停めて。一歩きした後には、お食事や入浴などもできる。

徒歩で5分
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鷲原橋

この橋は津和野市街より外の鷲原崖の酒屋の前に架かっていたもの。大蔭へ渡る橋梁で、神田通り、長州の加年(嘉年)村に通じていた。今も車が一台通れる幅の橋が架かっている。

関連スポット→【第三十三図】

徒歩3分
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鷲原大夜燈

鷲原馬場の入り口にたたずむ大夜燈。奉納したのは喜時雨組の小頭、足軽、上市組の小頭、足軽と記されている。喜時雨村が以前津和野市街の内にあった時のものか。津和野百景図の解説で、里治はこの夜燈は今も残っていると記している。

関連スポット→【第三十四図】

徒歩1分
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流鏑馬(やぶさめ)馬場

吉見頼行(よりゆき)が弘安7年(1284)に木曽野(旧木部村)から津和野に移り、正中元年(1384)に三本松城が完成、その後に造られた馬場である。
長さがおよそ118間半(220m)、横が13間(24m)である。
鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場を模したといわれ、原型を残す馬場として現存する最古のものといわれる。

関連スポット→【第三十八図】

徒歩1分
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鷲原八幡宮

鷲原八幡宮は城山の麓にあり、中央の八幡宮は元中4年(1387)吉見正頼(まさより)が鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請した。楼門と拝殿は九州は竹田の番匠(棟梁)が造ったと言い伝えられている。右にあった下山神社は亀井家が勧請したもので、明治4年(1871)に亀井家が東京へ移住した際に移転された。
本殿と拝殿、楼門は室町時代の特徴を伝えるとして国指定の重要文化財に指定された。
関連スポット→【第三十五図】

徒歩1分
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大杉

津和野で「大杉」といえばこの大杉。かつては「鷲原愛宕神社の大杉」と呼ばれていたようだ。樹齢千年ともいわれるが、どのくらいの年月が経っているかわからない。愛宕神社は今はないが、大杉のたつ敷地の突端部に郭状の神社跡らしき場所が残る。
もちろん大杉も健在で、社叢の中でもひときわ目立つ。樹高は40m、周囲8.7mとされている。

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鷲原の桜

鷲原八幡宮は、今も昔も桜の名所として知られる。

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鷲原八幡宮流鏑馬神事

毎年4月第1日曜日に開催される。
鎌倉時代の狩装束をつけた射手が疾走する馬上から三つの的を射る迫力ある神事で、時期が合えば桜が満開の中で、文字通り華のある神事が行われる。

徒歩5分
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茶臼山

茶臼山は大蔭というところにあり、麓の西側を神田川(じんでがわ)が流れている。「茶臼山」という名の由来は、山の形状が、茶葉を挽く道具の茶臼に形が似ていることであろう。『幾久紀行』にも、「水にもまるる茶臼山挽木にあらで薪樵る云々」(「茶臼山と言っても挽木を取るのではなく、樵は薪を取っている云々」というほどの意味か。「挽木」とは茶臼に使う棒のこと。
関連スポット→【第五十八図】

徒8分
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陶ヶ嶽

津和野市街南の大蔭と呼ばれる地にある山。吉見正頼が三本松城(津和野城)主だった時代に、山口の大内氏を下剋上で討った陶晴賢が津和野攻略のためにこの山に本陣を構えたことから、「陶ケ嶽」と呼ばれるようになった。
吉見・陶両軍は数度の激しい戦闘を交えながら約五か月間にらみ合いを続けたのち、和睦を結んだ。このとき陶軍が置き去った茶釜や鐘などがここから見つかっている。
関連スポット→【第五十九図】

徒歩3分
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道の駅津和野温泉なごみの里

疲れを癒やしてお帰りください!