藩主の行列が多く描かれている津和野百景図。大名行列といえば「参覲交代!」と思う方も多いのでは?
百景図には参勤交代の行列の絵はありませんが、城下町においての参覲交代路を歩いてみませんか?
※イメージ図は第三十二図鷲原口屋外です。参勤交代の行列ではありません? どこへ行く行列だと思いますか?
津和野藩主の御殿跡の一部が史跡公園「嘉楽園」として整備されています。
参勤交代の出立は殿様の御殿から。
嘉楽園には第十八図祇園會車藝で描かれた物見櫓が移築されています。
津和野藩主は御殿を出立すると御幸橋をわたって下中島通りへ。御幸橋は、第十二図、第十三図、第十四図などで描かれている。
現在の津和野高校グラウンドの正門が、津和野藩主の御殿の正門でした。
第十四図で、錦川(津和野川)を群れをなして泳ぐイダ(ウグイ)、とヒゴイを覗き込んでいる人々が描かれています。現在はイダの群れはいませんが、ところどこ悠々と泳ぐ鯉の姿が見えます。
下中島と殿町との間に架けられている橋を大橋という。この橋はもともと跳ね橋で、あまり例がない橋であったという。里治は「今はふつうの橋に架け替えられてしまった。どのような理由かは分からないが、大橋には擬寶珠(ぎぼし)がない」と嘆いている。
現在は鉄骨の橋となっているが、当時の面影が伝わるのが面白い。
第七十図森總門を通り、行列は堀之内を出ます。森總門の名残を残す郷土館は大正10年、当時としては、県内唯一の郷土歴史博物館として設立されました。創設当時は、藩校養老館の御書物蔵を利用していましたが、昭和15年に現在の建物が建設され、独立した郷土館として整備されました。
館内には津和野百景図を始め貴重な資料を展示。館そのものも国の有形文化財に登録されました。
現在の津和野小前を通る。当時はこの道路は外堀であり、外堀の外側、庶民が住むエリアに行列の威容を見せながら進んでいたと考えられます。
第六十八図で描かれた景色は、現在の津和野小学校付近の様子で、外堀の中央辺りの森町から堀の内側に入る門があり、その内側を堀の内といいました。
津和野警察署を向かって右手に見えたら、左へ折れます。
まっすぐ進めば第六十七図鳴滝へ。手前で右へ折れて中座(なかざ)とう町へ向かいます。
津和野中学校を通り過ぎると、赤い屋根に赤レンガの煙突が目印の酒蔵・財間酒場が見えてきます。
寛政3年創業で、創業当時の蔵が資料館として公開されています。
高崎(こうさき)邸は、津和野藩主家亀井家の分家「高崎亀井家」の本邸で、津和野市街の中座にあります。第63図に描かれているのは門で、邸宅は茅葺きだった。明治2年(1869)正月11日、火災によって失われたため、現在この地は児童公園や集会所が設けられており、りっぱな石垣の遺構のみが当時を偲ばせる。この東側表門付近を指す「本門前」という地名は今日も残っています。
参勤交代の行列は中座より城下を離れ、街道を通って一路、現廿日市市にあった津和野藩邸へ向かいます。
森鷗外旧居、常盤橋をわたって、西周旧居を見学して、スタート地点の嘉楽園へお帰りください。