投稿日:2016年11月22日
昔は舟運が盛んだった。
幕府や藩が守りのために橋を架けさせなかった、ということもあったが、峠や坂や崖の多い陸路より舟運の方が便利だったからである。
この絵の場所は、前の鮎が群れていた所から4キロぐらい吉賀川を下った所、丁度津和野川と合流する地点である。川向いは天領日原村である。
銅が採れたので江戸時代には幕府の直轄地となっていた。
ということで、ここは津和野藩と幕府領地の境でもあり、いろいろとトラブルもあった所である。
右手上流は柿木、六日市へ続く吉賀川である。対岸の家は天領日原。こちらの屋根は津和野藩枕瀬側。
ここには枕瀬組の代官所もあった。今でもその跡の碑が残っている。
船が二艘。手前は薪だろうか。左鐙は薪を益田高津の方まで出していた。塩を焼くのに使う薪を
塩木といい、それを専門に出していた所を、左鐙の塩木谷(しゅうぎだに)と呼んでいたと聞く。
もう一艘には馬が乗っている。船は上流を目指している。上流の方では鈩(たたら)が盛んだった。
若しかしたら、この馬の荷物は砂鉄かもしれない。左鐙の豊富な材木を利用し、木炭を作り、
その火で砂鉄を溶かして鉄を取り出したのだ。山裾には今でも金屎が転がっているという。
採れた鉄は再び川を下り、高津から廻船で北陸や大阪へ送り出され上質の石見銑鉄と珍重されたのである。
明治になって道路ができるまでは、この高津川は物資輸送の大動脈であったのだ。