投稿日:2016年11月16日
鹿狩りは宵から明け方と記してあるので、これは明け方の景色
だろうか。
雄鹿が二頭尾根に立っている。
円い模様が見えるので夏毛。冬になる前である。
津和野は鹿足郡という地名からして、鹿の多いところだったらしい。
この絵の雄鹿、立居姿は何とも美しいが、村人にとっては厄介者の害獣である。
楮の芽などは綺麗に食べてしまい、紙すきの盛んな村にとっては悩みの種だったのである。
鹿狩りは雄にさかりが来る秋口から始めたということだ。明け方の4時ごろに山に入って
身を隠し、鹿笛を吹いて寄ってくる鹿を撃ち斃したという。
江戸時代、一冬になんと800頭も退治したという記録もあったということだ。
藩では尻尾一本に、米三升(於杼呂我中には三斗とも)という褒美をつけて退治を奨励していた。
鹿は食料のみならず頭は漢方薬に、胎仔は「血の薬」として利用されたといわれる。
因みにこの鹿の皮。鷲原八幡宮の流鏑馬の時、射手の衣装行縢に使用されている。
若侍は鹿の夏毛、鹿の子模様の行縢。40過ぎれば冬毛の黒毛と決まっていたようだ。