投稿日:2016年10月13日
ここは森鴎外の生家の前から、米蔵とは反対の川側に出たところである。
65図の米蔵の時には青野山が見えたがこちらは城跡が見える。
津和野川が大きくカーブをして描かれているが、実際は真っ直ぐである。
常盤橋を入れるために、こんな構図になったのであろうと思われる。
川向の城山の麓は、藩邸のある所で重臣中の重臣が住んでいる。
川岸に見えるのは汲み路(くみぢ)という洗い場であるが、よく見ると上には塀があり門があり、しっかり藩邸を守る造りになっている。
ここに登場する藩士は継裃(つぎかみしも)。今でいうジャケット感覚で、ややくつろいでいる。
三人の人物は低中高と、庭に置く三尊石のように決まっている。考えた上の配置だろうか?
橋の上にも人物が一人いて、全体のバランスをうまく整えている感じがする。
ずっと先に「みゆき橋」が見えるが、普通「御幸橋」と書くところだが、津和野のこだわりか「幸橋」と書く。よく「さいわい橋」と間違われる。
この時代には右の上中島の道には何もないが、我々が小学校の頃は桜並木だった。
この前の道を川に沿って藩校「養老館」に通ったのが森林太郎、のちの鷗外である。
余談だが、城山に石垣が見える。ここに立ってさだまさしさんが名曲「案山子」を産むことになった。
山の先の方に小さく見えるのが日本五大稲荷の太皷谷稲成神社である。