百景図よもやまばなし

第63図 石垣が残る高崎邸

投稿日:2016年10月07日

高崎邸は亀井家の分家のお屋敷である。

当初は多胡家だったが、5代の藩主をここから出すに及んで亀井の連枝格となった。

大きな屋敷で高い塀をめぐらし、中も石垣を複雑に組み、本家の御殿に次ぐ館であった。

この絵を見ても高塀に囲まれ、両脇に番小屋を構えた立派な総門が見え、後ろには高石垣を組んだ屋敷が構えている。ちょっとした城である。

大村益次郎が野坂峠に近づいた時は、津和野藩の兵士も一時ここに集結したこともあったとか。

また嘉永の大火で御殿が焼失した時、再建されるまでここは仮の御殿にもなった。

津和野藩主七代の矩貞さんもここから出ている。

多胡の本家は代々家老職であるが、藩主も多胡家から出ているということでは、実質津和野藩は多胡家が牛耳っていたといっても過言ではないかもしれない。

初代の玆矩さんは湯家の新十郎。亀井家の次女と結婚し亀井玆矩となった。玆矩さんのあとを継いだ2代目政矩さんは実は側室の子であり、本家亀井家の子ではない。

多胡の重盛の娘との間に生まれた子である。そういうことでみても、津和野藩は古くから多胡家との関わりの深い藩である。

また同時に、玆矩さんのルーツである湯家とも関わりが深い。

永明寺付近の墓を見ると、湯のなになにとか多胡なになにとかいう墓は沢山ある。

ここの屋敷は高崎(こうさき)亀井というが高崎はここの地名である。

因みに、屋敷の隣りの造り酒屋財間さんのところの銘酒「高砂」は、ここの地名の「高崎」と隣接した「白真砂」をミックスさせて作った名柄である。

  

左右の写真は現在残る在りし日の

高崎亀井の館の石組みである。

道路に沿って100mぐらい続いている。中には長さ150㎝ぐらいの巨石もある。

ここにも是非訪れてほしいポイントである。

   

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