投稿日:2016年09月07日
先の瓦窯から100メートル上流辺りになるのだろうか。
ここから川は大きく左にカーブし51図の御猟場へと続く。
それにしても城の西側一帯を喜時雨(きじゅう)と昔から呼んでいるが、この地名は一体何からきているのだろうか。
非常に珍しい呼び名である気がする。(九州にはくじゅうというのがあるが)
喜ぶ時雨(しぐれ)と書いてきじゅう。確かにきじゅうは雨を喜ぶ地である。
ここは水利の非常に悪いところである。その証拠に沢山の溜め池がある。
津和野神社の絵にも、鳥居の近くにそれらしき場所がある。今は埋立てられ小さなグランドになっている。
「きじゅう」は昔から水の便が悪く、雨の降ることを待ち望んでいたそんな地なのである。
だから喜時雨。でき過ぎている。
実は古い資料で見ると喜時雨は、「木汁」あるいは「喜汁」と書かれている。
一体いつから今の字に収まったのだろうか。鷲原の常夜灯の字には「喜時雨組小頭」寛政十年とあるから
1798年ごろは定着していたようなのだが。
私は歴史学者ではないので適当なのだが、一つの妄想を持っている。
それは坂崎出羽守の時、築城家として紀州から人を呼び寄せている。
その人たち、紀州組が住んでいた場所。すなわち「きしゅう」が訛って、
「きじゅう」と言われるようになったのではないか。
亀井家の時代、「戦」も「幾久」となったように。
私なりに勝手にそんな妄想を巡らしている。証拠は何もない。
誰か真相を教えてほしい。