投稿日:2016年07月12日
それは1773年安永2年第7代矩貞公の時である。
なぜ1773年だったのだろうか?
その頃何かよからぬことでもあったのだろうか。
調べてみると前年1772年は明和9年。
江戸三大大火といわれる明和の大火のあった年。
津和野江戸屋敷にも何らかの影響があったことだろう。
自然災害も多く明和(めいわ)9年は、めいわく年ということで
暮れに安永に改元されてしまう年であった。
津和野でも1773年春に、1424軒も焼ける大火事が起きた。
仁右衛門事件から二度目の大火事である。(10年前に1459軒焼失する火事があつたばかり)
そうした不幸続きを何とか封じる手立てとして、稲荷建立が浮上したのではなかろうか。
稲荷の神は五穀豊穣、商売繁盛である。
しかし、それとともに愛宕神社と同じように火伏の力も願ったのではではなかろうか?
ここは私の単なる想像である。
太皷谷稲成神社の縁起を調べると真実ははっきりする。