投稿日:2025年05月09日
津和野は、1282年に鎌倉幕府から命を受けた吉見氏が来たことにより始まります。
当初は、現在の木部 中曽野地区を拠点としていました。
1295年から三本松(津和野)城築城を始め津和野に移りました。
今回は、津和野に移る前の木部 中曽野地区にある屋敷跡/古墳墓に行ってきました。
今は山道とちょっとした空き地となっていて当時を感じることはできませんが、左の杭が吉見屋敷の跡を示しています。
20m程登って行くと吉見の池とされる表示杭があり湧水が貯まる大き目の水溜りがありました。
水源が近くにないと人は生きていけないので必須ですね。
近くに小川も流れていましたが当時からあったかは分かりません。
小川を挟んで山を少し登ったところに古墳墓があります。
700年の歴史を感じる古墳墓ですね。墓石に彫られている文字は、まったく判別できません。
以上、津和野の始まりの地に行ってきましたが、私見を少し。
・吉見氏が津和野に来た理由
吉見氏は鎌倉幕府の命令で石見にやってきますが、理由は2度あったの元寇に備えるためとされています。
・元寇に備えるのであればお城は日本海近くにするのでは?
吉見氏が屋敷を構えてのちに津和野城を築城しますが、屋敷は海岸からは直線でも10km以上離れていて津和野城に至っては15km位内陸になっています。
・内陸にお城を築いた背景を考える
吉見氏が石見に来る前の1114年に藤原氏が石見守として赴任して1118年に任期を終えるのですが、浜田の御神本に居を構えて御神本氏に改名し更に1192年益田に居を移し益田氏に改名しています。
ここからは完全な私見ですが、鎌倉幕府としては任期を終えた益田氏(当時は藤原氏)が土着してしまい幕府の言うことを聞かない不穏分子になっていたのではないかと推察しました。
そこで、元寇を口実に吉見氏を石見に派遣し益田氏を牽制したのでは?と考えられます。
吉見氏が津和野に城を築いたのも益田氏が日本海側に勢力をもっているため内陸にしか築城できなかったとすれば辻褄が合うので個人的に納得!
津和野城は、津和野川の天然堀があり城山も天守付近は傾斜がきつく守りに易い城と評価されているので、お城を築くには最適な場所と言えます。(益田氏に備えたのが当初の目的では???)
以上です。
また【津和野歴史】でお会いしましょう。