投稿日:2025年12月16日
津和野藩最後の藩主・亀井茲監(これみ)は、天保13年(1842)に高松藩主・松平頼恕の娘「貢子(みつこ)姫」と結婚しました。
江戸時代の大名家は参勤交代(江戸と国元を往復する制度)のため、奥方や子どもは江戸に住むのが一般的。ところが文久2年(1862)の参勤交代緩和で「国元に戻る」動きが進み、貢子夫人は文久3年(1863)正月に初めて津和野へ。その姿は津和野百景図 第27図「永明寺坂」にも描かれています(永明寺は亀井家の菩提寺)。

茲監夫人貢子姫が津和野に到着するまでの日程は
江戸出立:文久2年11月28日 → 津和野着:翌正月15日。
江戸で生まれ育った夫人にとっては、はるか遠くに来たという気持ちだったでしょうか。どのような行列で江戸から津和野に入ったかは明らかではありませんが、衣服や調度を収める大型の箱「長持(ながもち)」が郷土館に残り、両側の金具に棒を通して担ぐ構造からも相当な道具立てで移動したことがうかがえます。

長持は縦76×横167×高さ74cmの大きなもので、両側に棒を通して運ぶための金具がついています。おそらく御輿入りの際に亀井家に持って来たものと思われますが、こうした道具を多数使って津和野にやって来たかもしれません。
津和野での暮らしの断片は百景図にも。第5図「城山の松茸」では松茸狩り、第12図では亀井家祖・茲矩(これのり)を祀る元武社(のちの津和野神社)への参拝の様子が描写。

また古文書からは、益田市・柿本神社への参詣に合わせ、道や橋の修繕時期を村役人が必死に情報収集していた実情も読み取れます。明治4年(1871)に上京するまで、津和野での在住は約10年。短い間ながら、藩主夫人としての務めを果たしたことが伝わります。

津和野町郷土館には茲監の孫・茲常の妻「久子夫人(伯爵上杉家出身)」の長持も展示。大名家女性の移動と暮らしを具体物で感じられる見どころです。
今回ご紹介した百景図の場面と実際の町の地形を結びながら楽しみたい方は、津和野町日本遺産センターにもぜひお立ち寄りください。展示・地図解説とあわせて歩くと、貢子夫人が見た津和野が、ぐっと立体的に見えてきます。
