150年ほど前の津和野藩は、啓蒙思想家・西周(にし・あまね)や、明治の文豪・森鷗外が藩校「養老館」で勉学に励んでいた時期です。藩校への通学の道すがら、彼らはまさに百景図に描かれた風景を見ていました。作品にも登場する鷗外が見ていた当時の津和野の風景を探しに歩いてみましょう。
森鷗外記念館で、明治の文豪の生涯を学習して、当時のままの姿を残す鷗外旧居へ。この場所で10歳まで過ごし、また猛勉強した部屋を見ることができます。
鷗外旧居の門を出ると、横堀と蓮畑が広がっていました。
絵の手前側で垂直に曲がり、蓮で埋まっているのが横堀。絵の手前から奥側に伸びているのが、城の外堀として作られた本堀(外堀)でした。本堀の長さはここから500間(約900m)ありました。
鷗外旧居から錦川(津和野川)に向かうと、常磐橋という名の太鼓橋がかかっていた。現在は、歩行者専用の橋に架け替えられた(表記も常盤橋に変更)。川向うに親戚の西家があり、林太郎は西家に出かけるときにこの橋を渡ったことだろう
啓蒙思想家・西周(にし あまね)が育った家。周が勉強したという蔵が残っている。森家と西家は親戚筋に当たり、鷗外も西家にはたびたび出かけていったと考えられる。通学路からちょっと寄り道。
現在は、散歩やジョギングコースとなっている津和野川沿いの心地良い遊歩道。川辺に洗濯場があり「汲地(くみぢ)」と呼んでいた。
御幸橋を過ぎると対岸は、藩侯館。鷗外はどんな思いでこの景色を見ていたのでしょう。
城下町のうちでは、錦川は禁漁だったため、大きいウグイ(いだ)が黒々とした群れを作って泳いでいました。赤い影も見えるが、これは緋鯉か。ウグイの群れは、河川工事が行われるまで見ることができたそうです。
現在は、荘厳なお社と緑に映える千本鳥居のつづら折りが見上げられます。
対岸から望む弥栄神社。改修前の護岸の石垣と、川に向かって一旦下がってグイッと伸び上がる松の並木をご覧ください。
この橋を渡って殿町に。
SL「やまぐち」号運行時は、SL見学スポットとしても人気です。
三家老屋敷が並ぶ、その対面に藩校養老館がありました。現在では鷺舞モニュメント広場から津和野カトリック教会までの広大な敷地が藩士の育成に使われていました。槍、剣術の道場が現存しています。また敷地内に森鷗外の「遺言碑」があります。
鷗外が学んだ「校舎」は、現在の津和野町民センターの建物の部分にありました。広大な敷地には、馬術練習場もありました。文武ともに力を入れていたことがわかります。絵に描かれたなまこ塀の一部は津和野カトリック教会に残っています。
森林太郎は10歳で東京に出てから、生前は故郷に帰ることはありませんでした。「余ハ石見人 森 林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言にちなみ、青野山が美しく見える永明寺に眠っています。林太郎の通学路でも、青野山が見えていました。