投稿日:2016年11月29日
川向にある街並みは柿本人丸神社の前に延びる門前町高津である。
水運から海運につながる拠点として、多くの店屋で賑わってもいた。
昔はここを「大渡し」と呼んでいた。
亀井家も先祖が南蛮貿易で成功したこともあり、最初はこの地に城を建て、
海外進出も夢見ていた頃があった。だが最初の藩主は落馬がもとで、
二年足らずで亡くなってしまい、この夢は儚く消え去ってしまった。
しかし代々の藩主も、この地に寄せる思いは並々ならぬものかあったようである。
河口は現在二つに分かれているが、元はもう少し東側の益田川と合流して一つになっていた。
それを津和野藩としては、浜田藩との摩擦を避けるため、自領の高津の方を掘削して
領内に流れを変えたというから驚きだ。これで遠慮なく海上交通が開けたわけである。
人丸神社へは藩主も度々お参りしたようであるが、行きは陸路で日原まで行き、枕瀬から船に乗り、
帰りは青原まで船、そこから御乗り物(駕籠)に乗りかえ、徳城の峠を越して城下へ戻ったようである。
天気の好い日は船で沖まで出て、飯浦辺りから山道を帰ったこともあったと聞く。
因みに、人丸の生誕日は旧暦8月1日であり、それにちなんで毎年9月1日は八朔祭が行われている。
そしてこの下流には今大型のスーパーが何軒も建ち、高速のバイパス、
橋も架かり新たな賑わいを創出している。
初代藩主がこれを見たらどう思うだろうか。わが意を得たりなどと思うのであろうか?