投稿日:2016年10月19日
鷗外屋敷から外堀が約一キロメートル続いてきたが、この絵の先が終点となる。
向こうに総門と石垣が見える。道路には8人の人の姿。
ややっ!坊主頭。まさかこの人もこの絵を描いた茶坊主の格斎さんなのか?
番傘を手に着流しの侍さんらしき人物と話している。(背筋の伸びがとても町人とは思えない)
津和野は昔から雨の多いころで、「弁当は忘れても傘は忘れるな」と年寄りがよく忠言する所である。
青野山に雲がかかっているのか、用心の傘を忘れずに携帯している。
格斎さんかもと書いたが、幕末の頃、お数寄屋番は少なくとも4人はいたので、若しかしたらその一人かもしれない。
棒手振(ぼてふり)もいるが魚売りだろうか?
津和野藩は日本海まで藩領を持っており、海から約三十キロは離れているが、
棒手振はなんと天秤棒担いで山を越え、4時間ぐらいで来たというから驚きだ。
この辺りは一応中・下級武士の生活圏であるが、実際は町人たちも混在している。
実は本町の総門やこの先の森の総門を通らずに、川下の橋(今の丸山橋)を渡れば自由に来られることになっている。
本町と森町、町田は殿町、大橋を通らずにツーカーなのだ。
この辺りは色んな階層、職業の者が入り乱れ、日常生活を楽しんでいた、活気のある場所なのだ。
そのことを格斎さんは描きたかったに違いない。