投稿日:2016年08月06日
第28図で言い忘れてしまったことを思い出した。
永明寺には亀井家が来る前に、
津和野を治めていたあの悲恋の城主
坂崎出羽守直盛の墓があったのだ。
一説によると出羽の守は、燃える大阪城から命がけで千姫を助けたのにもかかわらず、
醜い顔と千姫に嫌われ、家康が言った「救ったものには千姫を与えよう」
という約束は簡単に反古にされてしまった。
1616年、千姫は眉目秀麗の本田忠刻と再婚することになった。
怒った坂崎は、千姫の御輿入れの籠を奪ってやると宣言。
それを盟友の柳生但馬の守宗矩に説得され、哀れにも自害ということになった。
但馬守は坂崎の血を絶やすまいと、息子平八郎を引き取って召し抱えたという。
諸説あるけど私はこの説を信じている。
津和野治世わずか16年だった。
坂崎さんに可愛がられた、義理の息子の堀平吉さんが、13回忌にあたり
出羽守の墓を建てた。空一峰玄秀大居士覚がそれである。
若い時永明寺の住職さんに、
「みなさん、なぜ坂崎出羽守は千姫と結ばれなかったのか、分かりますか?」
と問われたことがあった。
一同みんなかたずを呑んで住職の答えを待っていた。
すると住職はこう答えた。
「それは縁がなかったのです。」