投稿日:2016年07月18日
中小姓以上の子弟が馬術の練習をしたとある。
津和野藩では中小姓以上は約200人の藩士がいる。
その子供たちだけが練習をした。
ということは中小姓以下のものは
馬に乗る資格がなかったということになる。
鴎外の家は徒士なので、当然練習することはなかった。
当時街中を馬でかけられるのは武士の特権でもあった。
わざわざ刀を差して乗っているのを見ると、実戦に即した訓練というところなのだろうか。
駆けている馬に乗っているのは二本差し、手前の武士は一本差しである。
西洋流の乗り方と違い、日本では馬は右乗りだったらしい。
左手は弓を持つので弓手(ゆんで)、右手は馬の手綱を持つので馬手(めて)と古くからよんでいた。
だから昔から右から乗っていたという理由にはなる。
左の腰に差した刀が邪魔だったから右乗りという説があるが、これははっきりしない。
時代劇でチェックしたいが、乗るところや降りるところは大体見せない。
格好悪いからだろうか。
この絵では、乗り終えた武士が鐙を両手に持って裸足で歩いている。
ということは、裸足で乗っていたのだろうか。
よく見てみると、隣の馬上の武士も裸足のようである。
馬の手入れは中間の役目。
走った後の馬の汗を流してやるのは、衛生管理上重要な仕事だった。
津和野の馬術は大坪流だった。