投稿日:2016年07月13日
殿町の道路である。
なんと絵の半分は道路である。
人もまばらで小さく見える。
この頃の城下町の道路の一般的な広さは、
3間( 5.4m)~4間(7.2m)いわれている。
東海道で5間。広い角館でも6間だといわれている。
なのにここは12間、約21.6mなのである。
当時ここを訪れた人は度肝を抜かれたに違いない。
若しかしたら日本一?
格斎さんがえへんと威張って描いたような絵である。
今は右が掘割、左は水路と歩行者帯で、
昔の三分の一は狭くなっている。
多胡家の石垣もあれほどは見えない。
明治の道路整備で相当な盛り土をして道路を高くしている。
その分だけ掘られたところが今の鯉の掘割だとすると、鯉の泳ぐ水底が昔の道路の高さということになる。
しかしこの絵の多胡・大岡の家老門、長いなまこ塀、藩校などは今でも残り、当時の佇まいを見せている。
付記 格斎さんが記しているように、ここは江戸時代の初めごろ殿様の館があった場所なので、
殿町という名が残っているのである。道路の幅が広いのは、
津和野は何度も火事があったために、類焼を防ぐためという理由もあったのではなかろうか。
また町方が総門の塀の外であり、いざという時にはこの広場が避難場所にも成り得る。
この絵は嘉永6年の大火事の直後である。藩校も場所を変え殿町に新築したばかりの
真新しいものである。いざという時ここも避難場所になる。
城下町は有事に備え道幅が狭いのは常識である。ここが広いということは、
ある意味これからは戦いがない平和な時代の象徴かもしれない。
因みにここは総門の内で、一般の者はよほどのことが無い限り立ち入りできない。
ために人通りは少ない。風呂敷を抱えている男は御用商人の呉服屋かびんつけ油屋か
というとこである。