投稿日:2016年10月13日
みなさん、ごきげんよう。
津和野町はこのところ朝晩冷えてきて、お出かけには薄手の上着が必要なほどの気候になりました。殿町の銀杏も色づきはじめ、秋の気配が漂いはじめました。
さて、このほど日本遺産センター開館1周年記念として、10月8日(土)に「歴史家安藤優一郎と歩く 亀井茲監正室 貢子の君 永明寺参詣コース」を開催しました。その時の模様をご紹介いたします。
「貢子の君 永明寺参詣コース」は、この秋に新設したまち歩きコースです。
嘉楽園(藩侯邸) → 弥栄神社 → 殿町 → 永明寺 → 津和野町日本遺産センター
巡るところは定番スポットですが、新たなストーリーで紡いでコースとしました。
そのストーリーの主人公は、最後の津和野藩主・亀井茲監公の正室である貢子の君(みつこのきみ)です。貢子の君は、讃州高松の松平家から亀井家に嫁いで来られたご正室です。
江戸時代は正室と嫡子は、江戸に住まなければならなかったことはご存知でしょうか? 例外はあるものの、藩主は1年おきに江戸に参勤した時にしか、正室や嫡子に会えなかったのです。もちろん、人質という意味もありました。
その制度が緩んだのが文久2年(1862=森鷗外が生まれた年)のことです。正室も嫡子も国許に帰ってよいということになりました。
貢子の君は1862年の11月に江戸を発ち、翌1863年の正月に津和野に到着しました。百景図には、貢子の君が3枚ほど登場します。このことは、津和野百景図が1863年前後の津和野藩の様子を描いていることを示しています。1867年には大政奉還ですから、激動の時期の津和野藩を描いていることになります。貢子の君は、津和野百景図を読み解く、キーパーソンの一人なのです。
国許にいるご正室の公式行事の一つが、菩提寺である永明寺参詣であり、亀井家墓所へのお参りです。貢子の君の目線で、城下町を歩こう! ということが今回の「まち歩き」のポイントです。
今回は、江戸文化や幕末を専門とする歴史家安藤優一郎先生にナビゲーターとしてご案内いただきました。
「藩主は毒殺などの危険を避けるために、口に入れるものは持参したか、料理人を帯同するのが通例だった」「行列を組み出かけた永明寺参詣などは半日仕事であるから、永明寺で持参した弁当をたべたはず」などといったアドバイスをもとに、津和野の「おやど弁当」を手配するなど、コースの監修もしていただきました。