第一巻
【第一図】三本松城 さんぼんまつじょう
能登の国から来た吉見頼行(よしみ・よりゆき)が永仁3年(1295)にここに城を築いたのが始まりで、その後3代直行(なおゆき)が増築した。慶長5年(1600)坂崎出羽守直盛が城主となったが、直盛はわずか16年の治世で失脚した。
元和3年(1617)鳥取の鹿野(しかの)城主であった亀井政矩(かめい・まさのり)が着任、その後明治4年(1871)の廃藩まで亀井氏が城主を勤めた。明治7年に建物は解体され、石垣のみが残る。
【第二図】三本松城出丸 さんぼんまつじょうでまる
出丸は本丸の北側にあって正中元年(1324)、吉見直行が本丸を増築の際に築造されたもの。江戸時代になって坂崎直盛(さかざき・なおもり)によって石垣が築かれ、織部丸とも中入丸、出丸とも言われた。周囲は塀で囲まれ、南東隅と北東隅に櫓が設けられていた。現在は石垣のみが残る。
【第三図】御城坂吉野杉 おしろざかよしのすぎ
この吉野杉は三本松城へ登る坂道の両側にあった。亀井家が吉野より苗木を取り寄せて植えたもので、すこぶる生育が良くて大木となり、明治4年(1871)の廃藩までは存在したとか。その後すべてが切り倒されたという。
稽古槍を持って下山しているのは城の常番頭の竹中六郎太夫の息子の竹中真虎(まさとら)で、槍術練習のために藩校養老館へ行く途中の様子を描いたもの。
【第四図】勢留り せいだまり
勢溜りは、市街から城郭へ登る道の麓のこと。左の杉の生い茂っているところを御中屋敷といった。この内側に堀があって、鴨を呼ぶために杉を植えたという。北側(右)の土塀の内側は藩主の居館で、この絵は安政年間の光景である。
山の中腹にあるのは報時(時打)櫓で、元禄2年(1689)の正月10日に始めて太鼓を鳴らした。当時石川忠右エ門組の次兵衛というものが時打ちを命じられたと言い伝えられている。
【第五図】城山の松茸 しろやまのまつたけ
三本松城には松が多く植えられており、秋になると松茸がとれた。この図は奥方が松茸狩りをしている様子を描いたもの。常に山番を置いて警戒し、他人がこの山に入ることは禁じられていた。松枯れの影響で城山では近年松茸はとれない。
【第六図】半峯亭 はんぼうてい
半峯亭は侯館の邸内の庭園にあり、城山の麓の松林の間に位置した。俗に月観(つきみ)の御茶屋といわれていた。
御殿裏の城山を少し登ったところにあって、青野山から昇る月を見ながら煎茶を楽しんだものと思われる。現在の城山観光リフトの下あたりにあったか。
【第七図】侯館前の射場 こうかんまえのしゃば
この射場は侯館(御殿)の南側、御書斎に面した場所にあった。庭と射場の間に紅葉の垣があり、秋になるととても美しい風情をみせた。
この絵は藩主が射術の練習をしているところ。現在は嘉楽園(からくえん)として町民の憩いの場となっているが、建物の跡には当時の物見櫓が移築され、往時の姿をわずかに残している。
【第八図】釣月 つりづき
釣月亭は御殿の庭園にある泉水(池)の中にさしかけて造られたもので、その天井には佐々木玄竜による「議」と書かれた大きな書が一面に貼り付けてあった。襖や障子、腰板にはすべて岡野洞山(美高)による雪中の山水の絵が描かれていた。床の間の落としかけは唐木の檳榔子(びんろうじ)であった。池の向こう側にある臥竜梅は老職多胡淡路が献上した名木で、もともと口屋丁(鷲原)の突き当たりにあった多胡家の別荘にあったものという。現在は町営住宅が建っている。
【第九図】侯家庭園内の蘇鉄 こうけていえんないのそてつ
この蘇鉄は、御殿の庭園「釣月亭」の南にあり、根株がとても大きく、このような蘇鉄の巨木は稀にみるものであった。現在は町営住宅の敷地内となっている。
【第十図】侯家庭園の梅林 こうけていえんのばいりん
御殿の御書斎の東側に梅林があった。満開のときは雪が降ったように美しく、奥ゆかしくいい香りが漂い、この上もないすばらしい光景であった。この絵は藩主が散歩して梅を観賞しているところを描いたもの。
【第十一図】御園内の花菖蒲 ごえんないのはなしょうぶ
御殿の庭園内に半菖蒲圃があり、その苗は江戸近郊の堀切より取り寄せられたもので、毎年年内より水を干して培養に手をかけ、夏季になると水を引き入れて花が咲く。花の形は大きく、様々な色の花が咲くと藩主はすぐに絵師に絵を描かせた。年毎に形や色が異なり、実生のため異種ができることもあった。現在、殿町通りの掘割に花菖蒲が植えられ、6月中旬の開花期には美しい風情を見せる。
【第十二図】藩侯館前 はんこうかんまえ
元和3年(1617)に亀井政矩が因州鹿野から移ってきたとき御殿は殿町にあったが、寛永2年(1625)に火災にあって、翌年今のところに建てられた。嘉永6年(1853)にまた火災により消失し安政元年(1854)に再建された。この絵は、藩主茲監(これみ)の奥室の貢子(みつこ)が元武神社(津和野神社)に参拝のため、東門を出るところである。絵に見える馬場先櫓は現地に、物見櫓は移設されて保存されており、往時の姿をわずかながら垣間見ることができる。
【第十三図】藩侯邸前より中嶋米廩を望むの図 はんこうていまえよりなかじまこめぐらをのぞむのず
米廩(こめぐら)は上中嶋と下中嶋との間にあり、家臣たちの飯用米として貯蔵されていた。橋は幸(みゆき)橋。米廩の右手には中山和助宅の物見、向こうに入る道路は堀内の入口。その左手は山道、多胡、松井、小松の4家が並んでいる。その後ろ方に見える松は、外と堀に沿って堤があった。遠景の正面に見えるのは妹山(青野山)、その右手は松林山天満宮。左のほうに見える道路は笹山六地蔵峠。
【第十四図】藩侯館錦川のいだ はんこうかんにしきがわのいだ
御殿の前、錦側の幸橋の下は禁猟区となっていて、無数のいだ(うぐい)が集まっている。その中にヒゴイも混ざっているが、出水のときに他家の園地から流れ出たもの。興源寺溝手通りに寛永5年(1625)に整備された井堰は、後田の田に灌漑するための設備であった。現在では取水口は川の水の減少により上流に移設されたが、現在も街中の水路への導水路として機能としている。
【第十五図】御屋敷北の御門 おやしききたのごもん
御殿の大手の門を描いたもの。片隅の櫓はひし形であったため、俗に菱櫓といわれていた。ここの土塀の屋根は切り石であった。現地には塀の石垣と思われる痕跡が一部残されている。
【第十六図】彌榮神社 やさかじんじゃ
弥栄神社は享禄元年(1528)に吉見正頼(まさより)が京都の八坂神社から城下の大谷下の原に勧請した。現在の地に亀井家が元和3年(1617)に祇園休み処を建立、万治3年(1660)に休み処を本社に造営し遷座した。嘉永6年(1853)の大火後の安政年間に亀井家によって再建されている。
川に面した石垣の上流部分には「亀の甲」と呼ばれる水の勢いを和らげる仕掛けがあった。神社地の石垣は積みなおしが見られるものの、津和野の河川では最も古い石積み遺構である。
【第十七図】祇園會鷺舞 ぎおんえさぎまい
弥栄神社の祭礼は毎年旧暦の6月7日と14日に行われ、御殿前の廣小路では、藩主も看楼(物見櫓)から見ていたという。鷺舞はその年の当屋及び殿町、原、中嶋所在の屋敷前や御旅処において行われた。曲は昔、坂田屋吉兵衛というものが京都で習ってきたものといわれる。吉兵衛は京都からの帰途、謡と曲が合わせたが合わないので、再度京都に戻り師匠へ問いただしたところ、「ヤアはかさゝぎの」の「ヤア」が抜けていたことが原因であると言われた、という逸話がある。現在では毎年祇園祭の7月20日と27日に行われている。
【第十八図】祇園會車藝 ぎおんえくるまげい
弥栄神社の祭礼は旧暦の6月7日から14日の間に行われた。町の中の5地区(本町、今市、魚町、万町、森横堀、清水町)が車を引き出した。この図は魚町の車で、車上に菅原伝授手習鑑車場を演じている絵である。
里治は「祇園会は今もあるが、車芸はすでに絶えてしまった」と嘆いている。
【第十九図】祇園會に扮する流鏑馬 ぎおんえにふんするやぶさめ
この流鏑馬の絵は、毎年旧例の6月7日の祇園会に行われていた花傘巡行に参加する5町のうち、本町のだしものを描いたもの。
流鏑馬は鷲原八幡宮の祭礼に行われているものである。
【第二十図】祇園會通り物の内エゝ聟 ぎおんえとおりもののうちええむこ
毎年旧暦の6月7日の祇園会祭礼の日に行われる5町による花傘巡礼において、今市通りのだしものを描いたもの。