投稿日:2026年10月13日
現在、津和野町郷土館の前庭に、津和野と長州(現在の山口県)との境を示す国境石が建っています。これは、日本遺産「津和野百景図」の「第60図 野坂」に描かれた二つの領境杭のうちの一つを移設したものです。


野坂峠は山口と津和野を結ぶ街道の途中にあり、多くの人々が行き来するメインストリートでした。百景図の絵師・栗本格斎(くりもと かくさい)が描いた第60図は、とても平和で穏やかな光景です。しかし、格斎が20代で藩主の近くに仕えていた頃、この場所は津和野城下が危機に直面した大事件に深く関わりました。
それは、慶応2年(1866)6月に起きた第二次長州戦争です。幕府が長州藩を攻めたこの戦いのとき、津和野藩には幕府から軍目付(戦況を監察する役職)の長谷川久三郎が派遣され、永明寺に着陣しました。
-1024x683-jpg.webp)
第二次長州戦争のうち、島根県を舞台とする石州口(せきしゅうぐち)の戦いは、同年6月16日に開戦し、長州軍は進撃を続けます。この最中の6月17日、長州藩の杉孫七郎が長州領の嘉年村に布陣し、津和野藩に対して幕府軍の軍目付・長谷川の引き渡しを要求しました。さらに、長州藩の児玉小民部が率いる軍勢が、野坂峠にほど近い長州領の徳佐村に駐在し、軍目付を渡さなければ城下に進軍すると圧力をかけます。
この危機に、津和野藩は清水保右衛門・羽田多橘を派遣して交渉を続けました。二人はなんとか事を収め、長州藩兵に野坂峠まで見送られたといいます。
その後、津和野藩は長州藩の要求に応じることを決め、同年6月27日、軍目付一行は野坂峠まで津和野藩士に護送され、長州藩に渡されました。一行が津和野に戻されたのは2か月後の8月29日で、このときも津和野藩士が野坂峠まで引き取りに行っています。
津和野藩と長州藩のやり取りは領境付近で行われました。そのため、「第60図 野坂」に描かれた2本の領境杭は、この様子を間近で見守っていたことでしょう。現在は郷土館の前庭でひっそりと建つ石柱ですが、そのそばでは、津和野城下を守るための藩士たちの戦いが繰り広げられていたのです。
なお、軍目付の長谷川久三郎は、長州から戻った数日後の慶応2年9月4日に津和野を出ました。これを新暦に換算すると1866年10月12日、ちょうど160年前の今頃のことでした。
郷土館の前庭には、今もこの国境石が建っています。野坂を描いた第60図については、津和野町日本遺産センターでも詳しくご紹介しています。津和野にお越しの際は、ぜひ郷土館の国境石と見比べながら、センターにもお立ち寄りください。スタッフ一同、お待ちしております!
